前の画面〕 〔クリックポイント〕 〔最新の一覧〕 〔全て読んだことにする〕〔全て読んだことにして終了〕 〔終了

68786 日本人は音に寛容でよいのか
2014/7/4(金)09:07 - pe14b4h1086 - p1136-ipbf503souka.saitama.ocn.ne.jp - 1030 hit(s)

引用する
現在のパスワード


 音は、時と場合によって深刻なトラブルの原因になる。光景は目を閉じることによって遮断可能である。臭いは好悪の差があまりない。臭い物質が空気中に散布すると嗅覚が感じ取るが、臭い物質が充満し続けると感じなくなる。これに対し、音は恒常的で避けることが難しく耳を閉じることができない。また、音は人によって感じ方が異なる。自分は心地よいと感じている音も人によっては不快に感じてしまうことも少なくない。それは、音は各人の肌を通り抜け内部に浸透するからだ。音に対しては抵抗できない。そして、音は同じ音であっても一方がその音を発生させ、他方はそれを聞かされる場合、そのふたりの人間関係によって、聞かされる側の感じ方は随分と違う。このように、音は他の刺激よりも遮断することが難しいという点からトラブルの原因になることが多い。
また、日本は他の諸外国に比べ音に寛容であると言われることが多い。エスカレーターや動く歩道の注意放送、駅の構内放送、電車やバスの車内放送、デパートやスーパーなどの宣伝放送、銀行の自動現金水納機、駐車場などのテープ音、商店街や行楽地などのBGM、有線放送、街全体に向けてのスピーカー放送などが挙げられる。これらは「文化騒音」と呼ばれている。このように、日本が音に寛容である状態は望ましいのだろうか。 



確かに、日本人はなかなか自分から「席をつめてもらえますか。」「授業中は話さないでもらえますか。」といったように相手に提案や忠告をすることが苦手である。日本人は、「自分が言わなくても誰かが言ってくれるだろう、やってくれるだろう」といういわゆるお上意識を持っている人が多い。そのため、車内放送や注意放送は日本人を助けているとも言えよう。また、不自由なく暮らしている健常者にとってはお節介なことでも、高齢者や障がい者にとっては親切であり役に立っていることもある。これは私が実際に体験したことである。地元の福島のような田舎の電車は出入口のドアが自動ドアではなく、押しボタン式になっている。私が電車に乗っていた時、あるおばあさんがボタンを押してドアが開くということを知らず、電車から降りたいのだがドアが開かず困っていた。私は急いで代わりにボタンを押し、そのおばあさんは何とか降りることができた。このような体験から常に健常者のことだけを考えるのではなく、高齢者や障がい者など様々な人の立場にたって物事を考えることが大切であるということを学んだ。音に寛大であることは、日本人にとって望ましい状況のようにも考えられる。しかし、私はこのような状況は望ましくないと考える。


車内放送や注意放送はお節介放送であり客を一人前に扱っていない行為だと考える。ヨーロッパの国々では車内放送や注意放送がほとんどない。ヨーロッパでの電車やバスは時刻表通りに来ることがめったにないため放送がいらないとも考えられるが、車掌さんに「電車はどのくらい遅れているのか」「何番線に乗ればいいのか」などの質問をすると親切に答えてくれる。ヨーロッパの個人の自主性を重んじた体制を日本も見習うべきだと考える。現在の日本のような指示を待っているだけでは自立することが難しい。また、渋谷などでは、客の気を引こうと大音量でBGMを流している店が目立つ。私自身、初めて渋谷を訪れた時は、「うるさい」「落ち着かない」と感じた。大音量のBGMのせいで友達と上手く会話ができなかったという経験がある。このような状態が続くとストレスが溜まりやすくなり、また注意力が散漫になり事故や事件が起きやすくなると考える。また、BGMをかけた時の電気代は相当なものであり無駄な電気を使用しないようにするためにも大音量のBGMは控えたほうがよいと思う。先述した通り、音はトラブルを起こしやすい。今回の授業で扱った「ピアノ殺人事件」も音に寛大である日本の社会体制が原因の一つである。町や家庭はもちろん、学校でも事件のもとになる要素は多く存在する。運動会の練習や運動会当日を知らせる早朝の花火、鼓笛や吹奏楽の練習などである。大学での大音量のバンド練習も大学周辺の住人からのクレームの一つである。学校という地域全体から見ても一目置かれるからといって何をやっても許されるものではない。音にはトラブルが起こりやすい性質があるため注意しなければならない。私の近所にテレビの音量を必要以上に大きくしていたり、大音量で音楽をかけながら車を運転する人がいる。周りの近所の人々が注意したが変化はなかった。殺人事件までは発展していないものの、その本人は現在も地域から孤立している。音に寛容であることは騒音に対して鈍感だということだ。騒音は、公害であり、私たち一人ひとりが起こす可能性のあるものである。


以上から、私は日本が音に寛容である状況は望ましくないと考える。


参考文献 『騒音文化論』 2001年 中島義道


〔ツリー構成〕

【68786】 日本人は音に寛容でよいのか 2014/7/4(金)09:07 pe14b4h1086 (4000)

前の画面〕 〔クリックポイント〕 〔最新の一覧〕 〔全て読んだことにする〕〔全て読んだことにして終了〕 〔終了

※ 『クリックポイント』とは一覧上から読み始めた地点を指し、ツリー上の記事を巡回しても、その位置に戻ることができます.