第8回 教育学概論 授業論

 授業は学校や教師にとって、最も重要なことであるが、実際には、よい授業は少ない。
 「この授業はよかったというような、よい授業を大体においてずっと受けてきた人は?」⇒1名挙手 
 「では概してつまらない授業が多かったという人は?」 多数
 そのように、よい、楽しい、わかる授業は少ないことがわかる。
 ではよい授業とは何か。
 授業といっても、形態や方法に種類がある。

1 授業の形態
 一斉授業・集団授業・個別授業という形態がある。
 一斉授業は、日本のほとんどの学校で行われている授業で、この教育学概論もそうだ。国際的に見ても最も多い形態であるが、欧米では集団授業や個別授業も少なくない。
 一斉授業は、教師が生徒全員に対して、同じことを教え、共通の授業をしていること。
 集団授業とは、グループで作業的に行われる授業形態で、これを通常の形態にしている学校も欧米では存在する。(授業課題をグループ単位で決め、グループで調べたり、検討したりする作業が中心として授業が行われる。)
 個別授業とは、個人が異なる課題を、自分で学習することが中心となる授業。北欧ではこの形態が多く、アメリカで発生したドルトンプランはこの拡大された形。
 月曜日の1時間目に、個々人が今週の課題を決める。全体の課題と時間毎に割り振った作業を決め、それに従って、週の学習が進んでいく。教師は分からないところを教えたり、チェックしたりする。金曜日の最終時間にどれだけ実行できたかを調べ、次の月曜日につなげていく。(ドルトンプランは、この個人的に定めた課題を、共通の課題をもった生徒でまとまり、その教科の専門の教師が教えるという方式をとる。北欧はドルトンプランではなく、ドルトンフラン学校はオランダに存在する。)
 個別授業は、個別指導塾など、日本の塾に多く存在する。
 
2 一斉授業
 一斉授業で、この授業はよかった、というような経験があるか?
学生1 高校で、ギャンブル好きな英語の先生が、競馬の話で、どの馬がいいかなどの話で、生徒を惹きつけ、授業の内容については、要点をまとめるような感じでよかった。
T それは授業がよかったというより、教師が人気があったということではないか。
学生1 要点のまとめかたなどよかった。
学生2 高校の国語のベテランの年配の先生が、現代文で、予め答えを出すなどしないで、生徒に考えさせ、それを引き出す工夫をしていた。

 一斉授業は通常何を目指しているのか。
 それは多くの場合「知識」であるが、その知識の伝授で終わってしまっている授業が多いのではないか。通常、教師は自分が教わった方法を実践する。学生の教育実習などを見ているとほとんどがそうだ。
 しかし、そうして身につけてきた知識が、今どれだけきちんと身についているか。それは前に聞いたように、かなり心もとないに違いない。「知識」というものは、単に「知識を教える」というやり方では身につきにくいものだ。
 それで記憶法で工夫がある。「いい国作ろう鎌倉幕府」のような語呂合わせ的記憶だ。しかし、そういう記憶法はいろいろな限界がある。(単なる記憶に留まることが多いし、語呂合わせできないものは覚えられない。語呂合わせ自体覚えることが簡単ではないかも知れない。)
 知識を確実にするには、それを使って「考える」、知識を考えるためのツールにすることだ。
 一斉授業では、知識を与えるのではなく、考えさせるこめには「発問」という問いかけをする。発問が適切であれば、生徒はそれをきっかけに考え、多様な答えを出してくる。しかし、適切な発問を考えるには、教材への理解と子どもへの理解がともに深くなければいけない。(前回の島の授業でやったように、教材への理解が正確でないと、とんちんかんなことを聞いてしまう。)また、子どもへの理解がないと、発問への子どもたちの反応が予測できず、次の発展の方向や、発展させるための発問を考えることができない。
 しかし、適切な発問を考え、それを適宜子どもたちに与えていくと、様々な考えがぶつかりあって、多様な発展をもたらすことができる。これは個別授業ではできないこと。
 
 日本のすぐれた社会科の教師だった安井俊夫という先生がいた。
 安井先生の授業は、ほとんどがディスカッションで構成されている。いろいろな資料や実物を提示しながら、問いを生徒たちになげかけ、それに生徒たちが答え、そこから更に発展した問題を考えていく。こうした一点集中的な授業なので、教科書の一部しか扱わないが、テスト(安井先生以外の人が作ったテストでも)では常に他の教師の教えたクラスより10点から20点高い点数をとるという。それは、まず授業が楽しい、考え、討論する授業が充実しているので、生徒たちは、授業に参加したいと思う。知識がなければ参加できない。だから、予習プリントで知識を吸収してしまう。興味があるから、どんどん覚える、こういう循環が作りだされている。
 
 授業改革をして、学校改善をした事例のビデオを見た。
 
 静岡の公立岳陽中学は、以前校内暴力で荒れており、不登校も多かった。しかし、佐藤校長の指導の下、授業改革を行い、「学びを通して自らを鍛える」という理念で、学力がトップクラスになり、不登校はゼロになった。
 その特徴は
 ・学校内部の授業研究が年40回ほど行われる。
 ・先輩・後輩なく、自由で平等な意見交換で率直な検討
 ・授業をビデオ撮影するが、教師ではなく、生徒を追い、生徒の表情を検討しながら、授業の効果を検証する。
 
 教育委員会や文部科学省の研究指定校という制度があるが、それは外部から持ち込まれ、校長の業績作りに使われるなど、実際には効果が弱いことも少なくない。特に道徳教育研究指定校になり、それが終わると学校が荒れるというのは、かなりのところで見られる。そのような研究が無意味とはいえないが、重要なことは、学校の内部で、自発的に、自由に行われる、しかし厳しさをもった相互研究・検討が授業改善には最も有効である。
 
 この実践の結果、子どもたちの授業が楽しいという声が聞かれるようになった。
 
3 体験型授業

 授業には、こうした知識伝達型に対して、それを批判して出てきた体験型の授業がある。知識を書物から学ぶのではなく、実際の体験をしながら学んでいく方が、興味関心が沸くし、理解もしやすいという理由で行われる方法である。経験主義の教育ともいう。
 知識主義の教育は、詰め込みに走り、落ちこぼれを生みやすいという批判がある。そこで体験型の授業を主張されるが、興味があり、楽しい授業になっても、基礎学力がつきにくいという批判が生じやすい。そこで知識型が再びクローズーアップされるという、シーソーゲームが繰り返される。
 特に、日本のように国家が教育内容を詳細に決めてきたところでは、このシーソーゲームが国家レベルで起きることになる。国家基準が弱いところでは、地域的な差であったり、地位的なシーソーゲームにとどまっている場合が多い。
 
 戦後日本は、アメリカの教育改革が行われ、体験型の教育が導入された。
 みなさんは郵便ごっこ的な授業をしたことがあるのではないか。(半数以上挙手)
 1年生が6年生に手紙を書き、逆に6年生が1年生に手紙を書く。そして、郵便配達組織が作られ、その手紙が配達される。こうして文章力を培ったり、また郵便局の仕組みを学んだりする。これが体験型の授業だ。
 
 (この戦後改革は、やがた学力低下という批判を招き、衰退していくが、やがて、落ちこぼれ問題などが1970年代に起きて、80年代あたりからゆとり政策がとられ、総合的学習などの体験型が復活してきたが、またPISAという国際学力テストの結果が悪かったことで、知識主義が復活しつつあるという現状になる。)
 
 しかし、この戦後教育を消さずに、ずっと守ってきて、発展させていた学校が伊那小で、30年ほど前から、動物を飼うことを教育の軸にする実践を展開してきた。
 
 さて、総合的学習でとてもよかったという経験のある人

学生3 (記載なく不明)
T ロールプレイのようなことですか?
 
学生4 地域の伝統の機織りを経験した。糸から布を織り、最終的にコースターを作った。
T どういう知識を得ましたか?
学生4 糸から布ができることを発見しました。
T 何年生のときですか?
学生4 小学校3年生です。
T なるほど。

 伊那小のビデオを見る。
 
 (ノートはかなり詳しくビデオに流れる音声を拾っているが、ここでは省略、ビデオの概略を示す。)
 
 −−ビデオの概略−−
 前年度飼われていた豚の順子が妊娠したことと、年度変わりだったので、一時帰宅していたが、新年度になって、再び登場。まもなく出産を迎える。そのための勉強もかなりしており、また、自分が生まれたときのことを作文に書く。
 出産があり、その後世話、費用を捻出するためのじゃがいも作りとバザーでのじゃがいも料理の販売、そして、食肉になるために出荷の時期がきて、農家の持ち主が、肉を食べたらという提案があって、それをクラス討議。結局食べられないという生徒一人の意思を尊重して食べないことになり、出荷を見送るところで終わり。−−−
 
 この伊那小の実践は、総合的学習導入のきっかけのひとつとなったと言われている。
 この体験型授業がうまくいくための条件は何か。
 (学生の意見)
 ・地域の人との連携が必要
 ・体験に対する興味 主体的な学習を可能にする興味ということ?
 ・保護者の協力
 
 以上に加えて教師の力量が重要
 まずオリジナリティー、創造力が必要、また多様性への対応力。蚕を飼うのと、豚を飼うのとでは、必要な知識や技術、協力が全く違う。協力者と連携する組織力も必要だろう。
 教師の力量が深いところで試される。
 しかし、成功すれば、生徒にとっては、一生の宝物になるような実践となる。
 
 では、体験型教育がむく教科とむかない教科があるだろうか。
 数学などはどうか。
 山村女子校の仲俣先生の実践(春の「教育学」で紹介した)は、折り紙で箱を作って、容積を最大にするとか、関数で切り取ったコマを回すための軸の位置の計算等、体験型の数学といえないこともない。偏差値が高いとはいえない女子校で、一年かけて微分積分を学んで、楽しかったという充実感をもたらしたものは、体験型の数学だったかも知れない。
 適宜、体験型と知識型の方法を用いながら、教科の違いに応じた実践をすることが大切であろう。