アルキメデスに学ぶ
【資料】
1、アルキメデスの生涯
アルキメデスは、B.C.287年にイタリア半島の先にあるシチリア島の都市国家シラクサで生まれた。アルキメデスの父親プェイディアスは天文学者であった。アルキメデスは幼少の頃より父親から初等教育を受けた。また、数学、天文学、力学を習うとともに、さまざまな機械の製作を行った。若き日に、機械学に関する書「機械学」を書いたと言われているが、今日残存していない。
その後、アルキメデスは学問の中心地であったアレクサンドリアに留学し、ユークリッドの弟子たちと共に「原論」の研究に従事し、幾何学者としての資質を身につけたのである。アルキメデスはアレクサンドリア留学後、生地シラクサに帰り、その後はシラクサで一生を過ごした。そして、シラクサでの研究の成果をアレクサンドリアで親交を結んだドシテオス(
B.C.3世紀後半に活躍)やエラトステネス(B.C.276年頃―B.C.195年頃)に書き送ったのである。アルキメデスは、自分の研究がアレクサンドリアの数学者たちの研究をはるかに凌ぐものであるという強い自信を持っており、次のような皮肉を込めた手紙さえも書き送っている。
「さて、以前にお送りしました定理の一つ一つを振り返っておこうと思います。といいますのは、それらの中にまちがった二つの定理を加えておいたからです。そのことは、それらの証明を何一つ自分でしないで、あらゆる定理を発見したと称するやからを、不可能なことを発見したとして論破するためなのです。」
この手紙からは、たいした能力もないのに、アレクサンドリアの学界に居座っている学者たちに対するアルキメデスの痛烈な皮肉が読みとれる。しかも、アルキメデスは自分の著作を当時広く使用されていたコイネー(共通語)ではなく、わざと故郷の方言であるドリア方言で書いて、それをそのまま送っているのである。
アルキメデスにまつわる最も有名なエピソードといえば、「黄金の冠」の話であろう。
シラクサのヒエロン王は、神殿に黄金の冠を奉納するために、ある工匠に必要な量の黄金を渡したという。出来上がった冠は見事なものであったが、この冠には、黄金が抜き取られ、その代わりに同重量の銀が混入されているとの噂が入ってきた。そこで、ヒエロン王はその真偽を確かめるとともに、冠を構成する金と銀との割合を見いだすよう、アルキメデスに依頼したのである(アルキメデスはヒエロン王やその子ゲロンとかなり親密であったといわれている)。
アルキメデスはこの問題に思いをめぐらしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽つかったとき、その中に沈んだ自分の身体の体積だけ水が浴槽から溢れ出ることに気づき、問題解決のヒントを得たという。彼は喜びのあまり「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(「わかった!わかった!」)」と叫びながら、裸のままで街を走って帰ったと言われている。(この方法の定式化については後に詳しく述べることとする。)
その他にもアルキメデスは、静力学、水力学、数学、天文学、光学の研究をした。彼はエジプト滞在中に、畑の灌漑用に泉から水を汲み上げるための「アルキメデスの水車」を発明した。アルキメデスは、太陽と月の出入と食、惑星の運行を観察することができるプラネタリウムを作った。また、平面、凸面、凹面の鏡における像の特性について考え、入射角が反射角に一致するという法則を定式化した。そしてまた、彼は、重心の概念を導入し、多くの図形や物体の重心の位置を決定し、「てこ」の理論を作った。水圧の法則の発見と浮力の法則の定式化の名誉は、彼のものである。
アルキメデスの活動期はアレクサンドリアを学術的中心とするヘレニズム時代の初期にあたっていると同時に、当時の世界戦争ともいえるローマ・カルタゴ間の戦争(ポエニ戦争)の時期と重なっている。
B.C.212年、ローマの将軍マルケルスがシチリア島のシラクサの港を包囲したとき、この都市国家のヒエロン王は、60隻の敵の船を駆逐するように、親戚であるアルキメデスに要請した。少し前にアルキメデスはてこを発見しており(彼の有名な言葉「われに支点を与えよ、しからば地球を動かして見せよう」が生まれたのはこのときだ)、てこと滑車を組み合わせた巨大なクレーンを造って、侵入した船を持ち上げて港の外へ排除した。この戦いでクレーンを助けたのが石弓と凸面鏡の装置であった。前者は、鉛や矢や重さ10タラントン(250kg以上)以内のさまざまな大きさの石を、かなりの距離投げ飛ばす発射装置だった。管の中に鉛の玉や石をもっている「くちばし」を、城壁の外へ前進させ、敵の大部隊の上でひっくり返すことができた。「鶴のくちばし」は、ロープでつるされ、船首をひっかけ、舟を横転させた。後者は、太陽光を船に集めて、それらに火をつけた。ローマ軍は破滅的な打撃を受けた。マルケルスは、「われわれの船を海から水をすくうコップ代わりに使ったこの幾何学の天才と戦うのはやめにしよう。」そして、「われわれは何故、この幾何学のブリアーレと闘わなければならないのか?それは、海からわれらの舟を持ち上げて、舟の舳先をこなごなに打ち砕き、われわれの頭上に多くの弾丸を飛ばしてきた。百本の手を持つ巨人の力にはかなわなかった。(ブリアーレとは、ギリシア神話の百本の手を持つ巨人のことである。)」また、あるローマ人は、「…ときには、一人の人間の才能が、膨大な数の人間よりも大きなことができるなどとは考えずに、アルキメデスの技術を計算に入れていなかった。今や、彼らはそのことがわかった…。アルキメデスは都市の内部で、海からの攻撃に対する防御の手段を準備していた。それは、予期せぬ攻撃に対する防御上の任務から、防衛軍を解放した。」三年間、アルキメデスは敵軍を寄せつけなかった。ところがシラクサの市民たちが宗教儀式に心を奪われていたある夜、ローマの兵士たちは街の城壁をよじの上って城門を開けた。マルケルスの軍勢が一斉に城門になだれ込むなかで、将軍は兵士たちに命じた。「アルキメデスに乱暴を働いてはならんぞ。この男は賓客として扱え。」
マルケルスの兵の一人が、砂の上に幾何学の図形を描いていたアルキメデスを中庭で見つけたとき、彼は命令に従わずに剣を抜いた。「わしを殺す前に、おまえさん」とアルキメデスは嘆願した。「どうかこの円を描き終わらせてくれ。」兵士は待たなかった。アルキメデスは死ぬ間際にこう言った。「わしの体はくれてやる。だがわしの魂はわしのもんじゃ。」
こうしてアルキメデスは、
B.C.212年にローマ兵士によって殺された。75歳の時であった。このアルキメデスの死を悼んだマルケルスは、彼のために墓を建てたのではないかと言われている。実際、
B.C.75年にキケロがシチリアの財務官として同地に赴いたとき、アクラディナの入り口で、イバラや雑木の茂みに覆われたアルキメデスの墓を見つけたと報告している。その墓碑には、図のような図形が刻まれていたという。この図形は、アルキメデスが『球と円柱について』において証明した「球の体積、表面積は、いずれもその外接円柱のである」ことを示すもので、この図形を墓碑に刻むことは、生前からのアルキメデスの望みであったと言われている。アルキメデスはこの研究結果をよほど気に入っていたのであろう。以上のように、天文学・機械学の研究者として出発したアルキメデスは、機会や技術を蔑視するイデア、つまり形相至上主義の学問観に縛られず、種々の測定を行ったり、天秤の使用や円周率・平方根の計算を行うなど、数学に計量的要素を大胆に取り入れるとともに、数学の実際的な応用を重視して、「機械学」という新しい分野を開拓し、理論と実際との結合を企図して、数多くの独創的な業績を挙げたのである。
2、アルキメデスの功績
ヴィトルヴィウスの報告によれば、アルキメデスが風呂場で見いだした、冠の中の金と銀の割合を知る方法を定式化すると次のようになる。
冠の重さに等しい金の塊と銀の塊を用意して、冠、金の塊、銀の塊を水中に沈めたときに溢れ出る水の体積をそれぞれV,V
1,V2とする。そして、冠に銀が混入されている場合には、冠の重さWは金の重さW?と銀の重さW?の和になるから、W=W1+W2であるそして、金、銀それぞれの単位体積あたりの重さは一定であることを考慮して、次のような計算がなされる。すなわち、重さW1の金によって溢れ出る水の体積は・V?であり、重さW2の銀によって溢れ出る水の体積は・V2であるから、重さWの冠によって溢れ出る水の体積はこれらの和になる。
よって、
・V1+・V2=V
が成り立つ。両辺にW(=W1+W2)をかけて、
W1・V1+W2・V2=V(W1+W2)
となり、これを変形して、
W?(V1−V)=W?(V−V2)
となる。したがって、
W?:W2=(V1−V):(V−V2)
が成り立つから、体積V,V1,V2を測定することによって、冠を構成する金と銀の重さの比W?:W2を知ることができるのである。
アルキメデスは幾何学よりも計算の方に興味をもった。その一つの例として、円周率の計算がある。
彼は『円と計測』という著書の中で、円周率が
3(3.142…)より小さく、3(3.140…)より大きいことを理論的に証明している。古代から円周率を求めることに多くの人々が関心を示していたようで、紀元前
2000年頃から、バビロニアでは円周率がだいたい3であることが知られていた。また、エジプトのなわばり師たちは縄を使って地面に大きな円を描き、円周の長さが直径の縄のいくつ分あるかを求めた。そして、3つ分とれて半端がでた。そこで、その半端で直径を測ってだいたい7つ分とれることがわかった。このようにして、円周率はだいたい3であることを知っていた。一方、ギリシアでは円についてずいぶん研究していたが、「円の性質」とその証明が中心になっていて、円の面積など計量関係はあまり問題にされていなかった。よって、当時の状況から考えると、アルキメデスの証明は驚くべきことである。彼は、円周率の値というものを正しく評価した最初の人であり、円周率の値を小数点以下第ニ桁(
3.14)まで正しく求めた最初の人でもある。それでは、一体どのような方法で円周率の値を求めたのだろうか。
まず、直径
1の円に内接する正六角形と、円に外接する正六角形をかいて、この円の円周の長さは、これに内接する正六角形の周よりは長く、これに外接する正六角形の周よりは短いと考えた。そしてこの図から出発して、次々とその辺の数を
2倍にして、円に内接および外接する正十二角形、正二十四角形、正四十八角形、そしてついに正九十六角形をかき、この円の円周の長さは、これに内接する正九十六角形の周よりは長く、外接する正九十六角形の周よりは短いと考えた。こうしてついに、円周率πが、3
<π<3すなわち
3.140…<π<3.142…という不等式を満たしていることを証明した。
ここに出てくる
3すなわちというπの近似値は、いまでもよく用いられている。この計算をするにあたって、アルキメデスはの計算や大きい数の開平計算にも取り組んだ。このようにアルキメデスの発想と粘り強さをもって、円周率の近似値
3.14が求められた。ちなみに、アルキメデスが活躍したこの時代には、0や小数の概念はまだ無かった。このなかでこれだけの発見をしたのは驚くべきことだある。以来、世界中の多くの学者が同じ方法で、さらに辺の数を増やして、より多くの桁数のπの値を求めている。
17世紀にドイツのルドルフが35桁まで求めたという記録が残っている。17世紀には微分積分の発見によってπを無限級数を使って計算する方法ができるようになった。そして近年、計算機の発達によってπの桁数は飛躍的に増加した。情報科学の専門家である金田康正氏は、
1989年にスーパーコンピュータによって10億桁の世界記録を作った。πの値は、日常生活では
3.14でほとんど間に合うが、測定技術の進歩した現在ではもっと多くの桁まで必要とする。しかし、科学技術の計算上でも30〜40桁もあれば十分である。それなのになぜこんなに多くの桁まで求めるのか。(必要ないのに…。)円周率の桁競争は、16世紀以降のヨーロッパ各国や古く中国、日本でもあった。桁競争そのものは、「そこに山(π)があるから」という心理だろう。(3)アルキメデスの螺旋
アルキメデスは円や曲線、球などにも興味をもった。また、
16世紀以降に急速に発達した<積分学>(曲線で囲まれた面積や曲面で囲まれた立体の体積などを求める学問)の基礎を作った業績も大きく、ギリシア数学者の中では第1人者といえる。<アルキメデスの螺旋>
われわれの身の回りには、蚊取り線香やデンデン虫の殻、鳴戸巻きカマボコの渦など、様々な螺旋がある。アルキメデスの螺旋というのはいちばん一般的な螺旋である。数学的にはつぎのようにして作られる螺旋である。
<平面上で、その端の点
Oのまわりに半直線lが定速で回転するとき、l上を点Oから等速で遠ざかっていく点Pの動いたあと。>2p四方の四角い棒に糸を巻き、ゆっくり糸を引き伸ばすと、有名な曲線である伸開線ができる。
曲線
DEFGHIの長さを求めると、(
4π+8π+12π+16π+20π)=15π約
47p曲線
DEFGHIでできる面積を求める。つまりBEF+CFG+DGH+AHI(ただし、ADEはダブルので除く)を計算すると、(
42π+62π+82π+102π)=54π約
170p2アルキメデスは放物線でできる図形の面積を小さく分割して求めたりしている。
(4)円柱と球
【1】数学者の墓碑について
数学者の中には、自分のお気に入りの研究を、お墓に刻みこむことを遺言にする人が多いのだそうだ。例えば、ニュートンは、17世紀最大の数学者といわれるイギリスの学者で、二項定理(
a+b)nの式をほりつけてある。ベルヌーイ(ヤコブス)は、17世紀から19世紀にわたったスイスの数学一族の1人で、アルキメデスと同じように曲線に興味をもち、どこを切っても曲率の同じ〈永遠の曲線〉を墓石の刻んでもらった。(実際は石屋がまちがえて、アルキメデスの曲線を刻んでしまったという)ガウスは、19世紀イギリスの数学者で、アルキメデス、ニュートンと並ぶ世界最高の数学者といわれた。19歳のとき、正十七角形が定木、コンパスで作図できることを証明し、これによって数学者の道を選んだ。彼は、青年時代のこの感激を一生忘れられず、墓石に正十七角形を刻んで欲しいと遺言した。ルドルフは、17世紀ドイツの数学者で、円周率を35桁まで求めたことをたたえて、教会の墓石に功績の墓誌が刻まれている。(遺言ではないが…)【2】アルキメデスの墓碑
アルキメデスのお墓はというと、球と円柱を組み合わせたものが作られたという。
アルキメデスは、円柱とそれに内接する球の体積と表面積の比が2:3になることを発見した。実際に計算してみる。
いま、球をすっぽり入れる円柱を考えてみましょう。このときの球と円柱の表面積、体積を求めてみる。
まず、体積を計算すると、
球:
r3円柱:r2×2r=2r3
いま、体積の比を計算すると、
球:円柱=r3:2r3=2:3
また、表面積を計算すると、
球:4r2
円柱:(r2×2)+(2πr×2r)=6r2
表面積の比は、
球:円柱=4r2:6r2=2:3
と、体積と表面積の比は同じになる。
このことに感動し、彼は、自分の墓石に円柱と球を描き、それらの体積の関係を言葉で書き記すように遺言にしたのである。
(5)重心の定義
重心の定義は、今は失われた著作『機械学』の中ですでになされていたといわれている。
アルキメデスによる重心の定義は、「もし
2つの等しい量が同一の重心を持たないとすれば、両者を統合したものの重心を結ぶ直線の中点になる。」となっていて、2つの等しい量A、Bの重心がそれぞれA、Bであり、ABの中点がCであるとすると、A、Bを統合した量の重心はCであるという内容である。そして、その証明は、重心が
Cではなく、Dであると仮定すると、A、Bは距離AD、DBにおいて釣り合うことになるが、これは「等しい重量は不等な距離で釣り合わない」ということに矛盾することを根拠にしてなされている。このことから、重心は、「ある量を一点で支えたとき、その量が水平状態で支えられ、釣り合うとき、その点をその量の重心という。」のように定義されていたと考えてよいであろう。平行四辺形、三角形、台形などの図形についても、「ある量」を「ある図形」と置き換えればよい。
【参考文献】
・アルキメデスを読む 上垣渉 著
日本評論社 1999
・積分の歴史
コーシー
,リーマンまで(P13〜32)ニキフォロスキー 著、馬場良和 訳
現代数学者 1993
・数学の悦楽と罠
:アルキメデスから
計算機数学まで(
P36〜45)ポール・ホフマン 著
吉永良正、中村和幸、河野至恩 訳
白揚社 1994
・ピラミッドで数学しよう
”エジプト、ギリシアで図形を学ぶ”
仲田紀夫 著
黎明書房